松山をこよなく愛し、身も心も松山に捧げたネイティブマツヤマンを自負するワタクシですが、今ひとつネイティブになりきれない問題を抱えています。
「えーーー!いまさらそれをいう( ̄□ ̄;)!!」とびっくりされそうなのですが...
それはネイティブマツヤマンなら当然感じるべきと言われる
「坊っちゃん♡LOVE」
の感情が自分にはないことです。
それはネイティブマツヤマンなら当然感じるべきと言われる
「坊っちゃん♡LOVE」
の感情が自分にはないことです。
ここ松山では、銘菓「坊っちゃん団子」、「坊っちゃん列車(市内電車)」、「坊っちゃんエクスプレス(高速バス)」、「坊っちゃんスタジアム(市営球場)」、ほか、松山を象徴するものに何かと「坊っちゃん」をプッシュするのがあたりまえです、なぜ「坊っちゃん」がそれほど好きなのだろう?というのがそれ。
でもって、移り住んだはじめの頃はいろんな方に「なぜ『坊っちゃん』なのか?」と、聞いてみたのですが、帰ってくる答えはだいたい以下のようなものです。
「松山は正岡子規や夏目漱石などを輩出した文学の街だからねぇ。特に「坊っちゃん」は漱石の代表作であり、松山を舞台に書かれた小説だからだよ。」
うーん(これってみんなこう言うし、ぱっと聞いただけではなにも疑問はないのですが)...。
しかしよく考えてみると...。
疑問1 小説「坊っちゃん」で、主人公坊っちゃんは、松山のことをかなりボロクソにけなして
ますよね。松山を愛するワタクシとしては我慢ならないぐらいひどいけなしようです。
なぜ、これほどけなされた内容の作品の主人公をなぜここまでもてはやすのでしょう?
松山の人たちは夏目漱石の「坊ちゃん」をどう思っているんですか。つーか、読んでるんですか。
↑このQ&Aによると松山の人は心が広いからけなされても気にしない。
とありますが...どうも腑に落ちない(けっして松山人が心が狭いといっているのではなく)。
疑問2 夏目漱石を輩出というが、漱石が松山にいたのはわずかの期間。地元輩出ということで
あれば、なぜ現代俳句の礎を築いた大俳人正岡子規でないのでしょう?
漱石が、松山にいたのは、1895年4月~1896年4月の1年間のみ。
松山中学(現松山東高等学校)の教員をしていた期間。これで「輩出」っていうのは...。
あと、よく「文学の街」というけれど、定量的な根拠をあんまり聞いたり感じたりしたこと
がない。(つか、どこの街でもわりと文学者を輩出していたりゆかりがあったりするもの
で、それらと比べて松山が突出しているかというとちょっと疑問。)
にもかかわらず、なぜ、
ほぼよそ者の漱石からのディスられっぱなしの「坊っちゃん」
なのか???
とは言え、ワタクシも松山を愛するものとして県外からのお客様をもてなすにあたり「なんでこれほど『坊っちゃん』なんだ?」という疑問に「それはかくかくしかじか」と、お答えせねばなりません。
ということで、自分なりに、解釈としてはこういうことなんじゃないかとお客さまに説明しています。
「坊っちゃん」と言えば文豪夏目漱石の作品のなかでも娯楽性が高く庶民的な国民的文学作品で、
夏目漱石の作品中第2位394万部の売上を誇る代表作のひとつ。
http://blogs.yahoo.co.jp/yuli_bidani/37488588.html
その上、映画化 5回、テレビドラマ 11作、アニメ 2作品
というように、作品の知名度が圧倒的です。
小説坊っちゃんでは、あれだけクソミソに言っていた松山の中で「住田温泉(道後温泉のこと)」だけは、「ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ。」と絶賛して、その風情を仔細に描写しており、漱石自身もたいそうお気に入りであったのだろうと思われます。
結果、作品が道後温泉を、文豪夏目漱石もお気に入りの、東京ではお目にかかれないほど、素晴らしく立派な温泉ということで、今では日本の名湯ベスト10の地位を確実なものとした、全国的な知名度の観光地に押し上げたのです?(詳しい数字が見つからないのであくまで憶測ですが)
【参考】いうまでもなく、温泉を全国的に有名にしたのは、夏目漱石著「坊っちゃん」である。
この住田と云う所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊郭がある。おれのはいった団子屋は遊廓の入口にあって、大変うまいという評判だから、温泉に行った帰りがけにちょっと食ってみた。今度は生徒にも逢わなかったから、誰も知るまいと思って、翌日学校へ行って、一時間目の教場へはいると団子二皿七銭と書いてある。実際おれは二皿食って七銭払った。どうも厄介な奴等だ。二時間目にもきっと何かあると思うと遊廓の団子旨い旨いと書いてある。あきれ返った奴等だ。団子がそれで済んだと思ったら今度は赤手拭(てぬぐい)と云うのが評判になった。何の事だと思ったら、つまらない来歴だ。おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極めている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ。せっかく来た者だから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛(でかけ)る。ところが行くときは必ず西洋手拭の大きな奴をぶら下げて行く。この手拭が湯に染った上へ、赤い縞(しま)が流れ出したのでちょっと見ると紅色(べにいろ)に見える。おれはこの手拭を行きも帰りも、汽車に乗ってもあるいても、常にぶら下げている。それで生徒がおれの事を赤手拭赤手拭と云うんだそうだ。どうも狭い土地に住んでるとうるさいものだ。まだある。温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む。その上に女が天目(てんもく=一般に、「茶碗」のこと)へ茶を載せて出す。おれはいつでも上等へはいった。すると四十円の月給で毎日上等へはいるのは贅沢(ぜいたく)だと云い出した。余計なお世話だ。まだある。湯壺(ゆつぼ)は花崗岩(みかげいし)を畳み上げて、十五畳敷(じょうしき)ぐらいの広さに仕切ってある。大抵は十三四人っ漬(つか)っているがたまには誰も居ない事がある。深さは立って乳の辺まであるから、運動のために、湯の中を泳ぐのはなかなか愉快だ。おれは人の居ないのを見済(みすま)しては十五畳の湯壺を泳ぎ巡(まわ)って喜んでいた。ところがある日三階から威勢よく下りて今日も泳げるかなとざくろ口を覗(のぞ)いてみると、大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて貼りつけてある。湯の中で泳ぐものは、あまりあるまいから、この貼札(はりふだ)はおれのために特別に新調したのかも知れない。おれはそれから泳ぐのは断念した。泳ぐのは断念したが、学校へ出てみると、例の通り黒板に湯の中で泳ぐべからずと書いてあるには驚いた。何だか生徒全体がおれ一人を探偵しているように思われた。くさくさした。生徒が何を云ったって、やろうと思った事をやめるようなおれではないが、何でこんな狭苦しい鼻の先がつかえるような所へ来たのかと思うと情なくなった。小説「坊っちゃん」
そして「坊っちゃん」以前と「坊っちゃん」以後では道後温泉は貴重な松山の観光資源として、文化的、経済的にも全国に通用する松山を代表する文化遺産の地位を築くことができたのです。
漱石という人はそのエッセーを読めば、かなりのへそ曲がりの強情っぱりだろうというのがすぐわかります。
今で言う「ツンデレ」的な属性だってことですね。
「松山サイテー」「ど田舎」「不浄の地」「こんなとこなんかダイっ嫌い!!」などとツンツンしなら、道後温泉で一人になると「ふふふぅ、気持ちイイ愉快だわぁ~♡、べッ、ベツにあんたのことなんて好きでもなんでもないんだからね(●`ε´●)」って感じでデレてるわけです。
ゆえに我々松山人たちは、作中でボロクソに言われようと、ツンデレの漱石タンの言うことだし、なにより自分たちの道後温泉と松山を全国的に有名にしてくれた「坊っちゃん」が大好きなのであったメデタシメデタシ。
ということなんじゃないかと勝手に解釈してるのですが間違ってます?
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