(何をあらたまって自己紹介してるんだ...)
この度『えひめ「食」みらいプロジェクト』というプロジェクトのメディアプロデュースを担当させていただくことになりました。
そこで、「えひめ」の「食」の「みらい」っていったい何なんだろうっていうことを毎日考えています。
本文と関係ありません。しかもアスパラはフランス産です。ごめんなさい。 |
距離が近いことが美味しさの理由
そんなことを日々考えているなか、先日FM愛媛の「EHIME FOOD STYLE」の収録でゲストで出ていただいた、双海のまちおこしをされている富田敏さんのお話に出たのがこの言葉です。
「産地や生産者との距離が近いことが美味しさの理由」だと。
この言葉すごく気になって、これって、どういうことなのか考えてみたんです。
じゃあ例えば、遠いところってことでモン・サン・ミッシェル産のムール貝と双海の防波堤で採ったムール貝じゃどっちが美味しいか(ちなみに双海でムール貝が採れるかどうかどうかは不明です)?
この問いに対してですが、「こっちが美味しかったのでこっちの勝ち!」ってことで、食べてみれば答えは出ると思います。で、仮にモン・サン・ミッシェル産のムール貝が美味しかったってことになったら「距離が近いことが美味しさの理由」というのは間違いだったということになるのでしょうか?
んーーーっ なんか釈然としないんですよね。
もちろん、モン・サン・ミッシェル産のムール貝も食べてみたいし、美味しいんだろうと思うけど、でも僕はこの問いに対して、双海で採れたもののほうが美味しくあって欲しいと思ったんです。
距離の近さ=共同体としての関係の強さ
これって、つまるところ「距離の近さによる美味しさ」というのは、もちろんそのものが美味しいってこともあるけど、自分とそのものとの関係の深さによるものなのではないかと思うわけです。もっというと、農産物や海産物と自分との関係が「運命共同体」なんじゃないかってことですね。
例えば、富田さんの住む双海は地名にもあるように海のまち。
「ハモ」の漁獲量が豊富で「ハモカツバーガー」をまちおこしの目玉に据えるなどの取り組みもなされています。
で、この海の豊かさというのは、海自体が最初から持っててどこか遠くの海から運んでくれるものではなく、その地域の森林が雨水を抱き、豊かな実りを得て土に還り、その大地の恵みが川を経て海に注ぎ込み、河口付近で大海と融け合うことにより繰り広げられる生態系全体の営みの豊かさそのものです。
当然、その営みの過程で、人の手によって森林が破壊されたり、河川が汚れたりすると海から受ける恵みもまた変わってくるということですね。いつも目にする防波堤周辺の海が汚れていたら、そこにいるムール貝を美味しく食べることはできませんよね。
あと、農産物とかも、となりの畑でつくってる野菜だったりすると、つくってる隣のおじさんも食べてるわけだから、ウマイかマズイかは別に安心ですよね。
日本じゃもうそんなことないと思いますけど、中国なんかじゃ「ジブンがツクッタ野菜?食べないよ~、食べるなら日本の野菜アルヨ~」的な話もあったりじゃないですか?
「距離の近い産物の美味しさ」って、僕達が(となりのおじさん含め)そこに生活しながら、日々産物のおいしさに関わっていることであり、すなわち自分も含めたその共同体の「美味しさ」への取り組みの成果であるということなんですよね。
近すぎて見過ごされてきたものの再発見
愛媛では、こういった山から川そして海へと続く小さな運命共同体の中に組み込まれているまちが数多くあります。
でもって春になれば、防波堤でメバルを釣り、ワカメを穫り、近所の山でタケノコを掘り、タラの芽やツワブキ、イタドリを摘んで来て、美味しいメバルの出汁がしみた若竹煮、タラの芽の天ぷら、ツワブキの煮物、イタドリのきんぴらなんていう贅沢な食事をすることができます。
東京のご出身でいらっしゃる富田さんにわかった「近くにあるものの美味しさ」と価値を、僕達は近くにいるがゆえに見過ごしていることがたくさんあるのではないかと思います。
僕達は、地元えひめで生活していく中で、生産者としても消費者としても、それぞれの立場で「近くにある食」への関わりは必ずあります。そして「みらい」を考えるに当たってはそれに対して「無関心」が最も大きな敵となります。
愛媛の食の未来を考えるに当たって、僕達がやるべきことは、こういった日頃から近過ぎるゆえに忘れてしまいがちな「近くにある食」の豊かさの向上に、一人ひとりが関心と責任をもって、次の世代(未来)を担う子どもたちにつないで行くことなのだと思います。
さて、次回は具体的に「えひめの食のみらいの為に何をやるか」を考えたいと思います。
ヒント:「近すぎてわからない」を解決するために。
「無関心」を「関心」に変えるには。
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